寿司職人、フレンチレストラン、陶芸家など、専門的な技術がいる職業にあるのが弟子入り制度。しかし、弟子入りって具体的にどのような方法で志願をし、どのような生活をしているのか、意外と知らない方が多いと思います。そこで、本記事では整体院に弟子入りをし、整体の技術を学んだ石川さんにお話を伺いました。
リーマンショックで、希望の内定はゼロ。合同説明会の縁からSEの道へ。
−−大学時代に取り組んでいたことについて教えてください。
大学は経済学部商学科で、全く整体とは関係のないことを学んでいました。どちらかというと、学業よりも軽音楽部でバンド活動にのめり込んでいましたね。
経済学部商学科だったこともあり、就職先は銀行や証券会社など金融関係の会社を中心にみていました。しかし、リーマンショックで、採用人数を大幅に減らしていた関係で、どこも受からなかったんですね。
ある合同説明会に行った時に、採用担当の人から「話を聞いていきませんか」と声をかけられて。そこが、以前勤めていたSEの会社でした。
−−元々、SE志望ではなく、合同説明会がきっかけだったんですね。
そうなんです。SEになると考えていませんでしたが、「金融業界をシステム面で支援できる」という話を聞いて、「SEとして就職するのもアリかな」と思い、就職を決めました。
−−就職してからはどのようなお仕事をされていたのですか。
開発言語「Cobol」を使って、金融系のシステム開発をする業務を担当していました。その会社は、クライアント先に常駐する仕事だったので、そのたびに現場も変わっていました。入社して、ちょうど3年経った頃に入った現場が、夜の21時近くまで働くのがザラ、遅い時は終電近くまで働くみたいにハードな環境だったんですね。
次第に、「一生この仕事で良いのか」と考えるようになりました。徐々に、仕事もおぼつかなくなって、前まで理解できたこともわからなくなってしまって……。
−−かなり、追い詰められてしまったんですね。
そうですね。頑張って会社に行こうとしたのですが、自然と涙が出てきて無断欠勤をしてしまって。このままだとまずいと感じ、病院に行ったところ、抑うつ状態と診断されました。1回休職し、また別の現場で復帰したのですが、やっぱりダメで。ここにずっといるのも精神的に辛いし、どんどん自分が惨めになっていくような感じがして、Cobolを扱える別の会社に転職することにしました。
弟子入りを志願。整体師としてのキャリアがスタート
−−以前、弟子入りされていた整体院とはどのタイミングに出会ったのでしょう。
最初の会社に就職していた頃にお付き合いしていた彼女が、病院に行っても鼻水が止まらなくて治らないと悩んでいたんですね。それを母に相談したら、横浜にいる整体の先生を紹介してくれました。
実際に連れて行って、診てもらったら、完全に出なくなったわけではないものの、かなり症状が改善されたんです。その施術を担当した先生を見て、「こんなふうに人の役に立つ仕事は素晴らしい」と感銘を受けて、その場で「施術を教えてください」と弟子入りを志願しました。
ーーその場で、弟子入りってものすごい行動力ですね……!施術をみて1回で心をつかまれた感じだったんですか。
実は、その整体院は私が小学校1年生の時に咳が止まらない時、母親に連れて行ってもらって治してもらった場所だったんです。なので、凄腕の先生という記憶だけがうっすらある状況でした。
あとは、SEの仕事とのギャップも大きかったですね。SEの現場では「できて当たり前」の雰囲気で、褒められることは少なかったです。だけど整体の仕事は直接お客さんから感謝されるので。
−−その先生は、どんなお人柄だったのですか。
昔がたきの人です。呼ぶ時も「おい」ですし、待合室で姿勢悪く待っているお客さんに怒鳴ったり、ザ・昭和って感じです(笑)
−−頑固親父、職人気質という言葉がぴったりですね(笑)弟子入りを志願して、断られることはなかったんでしょうか。
弟子入りを志願したら、あっさり「おう、来週から来い」とだけ言われて、特に断られることはなかったですね。その時点で、すでにお弟子さんがいたので、弟子入りの志願には慣れていたんだと思います。「来るもの拒まず、去るもの追わず」だったのかもしれません。
弟子入りで、どんな仕事をするの?
−−弟子入り生活はどんな感じでスタートしたのでしょうか。
皆さんが思い描いているとおりで、特に書類を交わすこともなく「来週から来い」「はい、わかりました」という感じで、整体院に行きましたね。そこで、「200万円ぐらいかかるけど大丈夫なのか」って言われて(笑)
−−200万円!?唐突ですね(笑)
ちゃんと聞いたら、「だいたい一流になるまでに200万円ぐらいかかる」ということだったんですが、無理なく払える程度で良いから、月謝みたいなのを置いていこうと言われて。1回の施術料金を3,000円でやっていたように、先生は別にお金にこだわっていたわけではなくて、おそらく、本気度を確かめたかったんじゃないかなと思います。実際、お金がなくて月謝を払っていない人もいたみたいですし。
その時は、週末の土日だけ通っていたので、1回の施術の料金の3,000円×(土日が8日)で24000円渡していましたね。
−−石川さん以外だと、他に何人くらいのお弟子さんがいらしたんでしょう。
だいたい10人以上ですね。同じ日に一緒になる方もいて。「なんで弟子入りしたのか」と聞くと、ほとんどの方がもともと患者さんだったんですね。この整体院で症状が良くなって感動して、「自分も人の役に立ちたいから」と、学んでいる人ばかりなんです。
−−職人のお弟子さんみたいに、清掃や雑用からスタートですか。
最初の1ヶ月くらいは、「見て覚えろ」という感じで、白衣に着替えて先生の施術を立って見ているだけでした。ただ、1ヶ月も待っていられなくて、先生に「施術をさせてもらえませんか」と直談判したら、「わかった次回準備しとけ」と言われて、次の日から施術をさせてもらえるようになりました。
最初は、施術の全体の時間のうち、序盤数分だけ「ここを押してみろ」と言われたことをやるだけで、そのあとすぐに先生に交代みたいな感じでした。もっと長く在籍しているお弟子さんは、先生が施術しているベッド以外の2台で施術していましたね。
−−「まだお前には早い、雑用からだ!」とか言われるのかと思っていました……!
清掃は任されなかったですね。というのも、整体院のオープンが朝5時からなんですね。
物理的に間に合わないんですよ。早くいけても朝7時くらいで。あと、礼儀作法についても、厳しく言われることはなかったです。先生は毒舌でジジイ、ババアと平気で言ってましたし、患者さんに怒っていたくらいなので(笑)
−−本当にキャラが濃いですね(笑)
今までの話だけだと、理不尽な人に聞こえますが、1回で結果を出せる凄腕の先生だったんですね。それこそ、正座ができない人が正座できるようになったり、杖をついてきた人が帰りには杖がいらなくなったり。信じがたいくらいに、目の前で結果を出していて。
あと、怒る時も的を得ているというか。そこの整体院は、ワンフロアで壁が一切なくて、待合室から施術台が見えるような作りになっているんです。先生は、施術をしながら待合室のお客さんも、隣の施術台の様子も見えているんですね。だから、隣でお弟子さんが施術をしている時も、「ここを押せば治る」と施術しながら指示出ししたり、順番待ちをしているお客さんが足を組んでいたら「体を悪くしたのは、お前がそうやって足組んでいるからだろ、足組むな」とお客さんに怒鳴ったり。
だいぶ無茶苦茶でしたが、それでもやはり治ると評判で、口コミだけでお客さんがいろいろなところから来ている整体院でしたね。
修行中に先生が急逝。兄弟子の元で技術を磨く
−−その後、兄弟子さんのお店で弟子入り生活を続けられたようですが、お店を移ったきっかけを教えてください。
実は、弟子入りして1年経たない頃に、先生が急逝してしまったんです。最初はどうしようと途方に暮れていたのですが、兄弟子さんが整体院を開業するということで、「うちに来ない?」と誘って下さって、引き続きそこで教えてもらうことになりました。
関わり方は、最初の整体院と同じく、平日は会社員をしながら週末だけ通っていました。弟子入りなのでスタッフでもなく、報酬は出ていません。
−−兄弟子時代は、どのような形で教えてもらっていたんですか。
先生の時と同じように、基本的には施術を通して実践で覚えて、お客さんがいない時間に兄弟子さんを患者さんに見立てて練習させてもらったり、技術的なことを教えてもらったりしていましたね。ただ、兄弟子時代は、出張整体を任せてもらえていて、そこはお小遣い程度ですが、お客さまから料金をいただいていました。
−−それが、まさに整体でお金をもらう最初の体験だったわけですね。
そうですね。兄弟子さんの整体院には遠方からきている方もいらっしゃって、出張にきてほしい声も多かったんですね。毎週ほどじゃないんですが、兄弟子さんに許可をもらって、月何回かは出張整体に行っていました。
−−弟子時代に、大変だったことや苦労したことはありましたか。
横浜の先生に弟子入りしている時は、大変だな、辞めたいなと思ったことは実はなくて。むしろ、会社が辛い時も、整体をすることで息抜きになっていたんですよね。
先生は、色々厳しいことを言うし、口が悪かったですが、その先生の個性を理解していて、患者さんも何処か笑いながら施術を受けているみたいな明るい整体院だったんですね。
それに、僕ら弟子たちに対しても「何かあったら俺が責任取るから好きにやって良いぞ」と言ってくれていたので、身構えずにのびのびと施術ができました。
−−怖いけど、カリスマ性のある魅力的な方だったんですね。
そうですね。だからこそ、当時はのびのびと施術ができて楽しかったです。しかし、先生が亡くなって兄弟子の元で出張整体をしていた時や独立当初は、自分が責任をとる立場になったので、「治らなかったらどうしよう」「クレームが出たらどうしよう」みたいにプレッシャーを感じるようになって、辛かったですね。
−−先生の存在が大きかったんですね。当時、先生から学んだ価値観や哲学があれば教えてください。
「1回で結果を出す」部分は受け継いでいます。内藤先生は、来た患者さんを徹底的によくする、絶対に治すというポリシーで施術をしていました。だから、施術時間を決めていなくて、すぐに症状が良くなれば20分で終わりますし、症状が重いと1時間くらいかかることもあります。
−−お聞きしたところによれば、先生はその人の座った姿勢や仕草から、生活習慣を見抜く目を持っていたそうですね。
そうですね。来院された瞬間からその人のことを見ていて、例えば、どっちの手で入口を開けたか、靴からスリッパに履き替えるときにどちらの足から履いているか、また待合室で座っている姿勢など、これらの些細な仕草から、おおよその生活習慣を言い当てていましたね。
内藤先生の意志と技術を継承すべく、整体院 楽(Laku)を開院
−−その後、独立されたわけですが、これはどのようなきっかけがあったのでしょうか。
先生がなくなってから、漠然と「とりあえず30歳になったら独立する」ということは決めていました。独立の決め手は、やはり内藤先生が亡くなった時に、患者さんが言っていた「内藤先生しか治せないんだよ」という言葉ですね。この整体でしか救えない患者さんがこの世にはたくさんいると知って、この技術を絶やしたくない、この技術を使って患者さんを救いたい、そんな想いから独立を決めました。
−−独立をすることは、非常に勇気のいる決断だと思います。不安や恐怖はなかったですか。
出張整体をしていて、ある程度、施術実績はあったので不安や恐怖はなかったですね。それに、「当時は良い技術があれば、人は来るもの」と思っていました。その後大変になるとも知らずに(笑)
−−町田で開業されていますが、なぜ町田を選んだのでしょう。
特にエリアにこだわりはなかったんです。開業のタイミングで、町田にある両親の実家が引っ越すことになって。そこを譲り受けて開業することになりました。先生も、「自分で整体院を始めるのなら、できるだけ初期費用は少ない方が良い」と言っていたので、元実家で家賃もかからないし、それならちょうど良いと思って。
−−開業して、お客さんは来ましたか。
集客のことを何も知らずに開業したので、初日はお客さんゼロでした。チラシもホームページも作りましたが、どうやって人を集めるかまったくわからなかったんですね。自分のお店なのに、「自分のことを知られるのが恥ずかしい」と羞恥心や恐怖心が出ちゃって、新規開店の看板を出してなくて。そりゃお客さん来ないですよね(笑)
−−そこから、どのようにして売上を増やしていったのでしょう。
売り上げは、2年経っても良い月で20万円、悪い月だと10万円以下くらいで、当時は苦しかったです。そこから、できることはすべてやろうとチラシやホームページ、Web広告、MEOなど、さまざまな方法を試しました。その結果、今では多い時には1日4〜5人、新規の予約も1ヶ月待ちになるまでになりました。
−−整体院で大切にしている価値観やポリシーについて教えてください。
先生と同じで、「患者さんを絶対に良くする」ですね。直せるか直せないかはもう相手次第なところもありますが、1回目来ていただいた段階で、何かしらの変化や、少しでも痛みを取り除けるように意識してます。
来るお客さんも、開院当初から変わってきていて、今は他の整体院や病院など、どこに行っても良くならない方が多く来院されます。
−−今後の展望について教えてください。
引き続き、内藤先生が大切にしていた「1回で結果を出す」の思想を持って、施術をしていきたいです。あと、亡くなってから知ったんですけど、先生自身は整体の学校を作りたかったそうなんです。それを聞いたときに、自分でこの技術を最後にしちゃいけないなと思って、今年から内藤式整体塾を立ち上げます。技術的なことはもちろん、先生の考え方や思想、哲学も合わせて伝えていけたらと思っています。
整体師にとって、施術をしたけど直せない時ってめちゃくちゃ落ち込むんですよ。無力さ、情けなさというか。お金をもらうのも心苦しくて。
元々この世界に入った人たちは、人を治したい、元気にしたい想いをきっかけに始めた人がほとんどだと思うんですね。そういう人たちに少しでも役立てるような、もっと活躍できるような技術やスキルを、この内藤式整体塾を通して伝えていきたいですね。
この記事を書いたひと
俵谷 龍佑 Ryusuke Tawaraya
1988年東京都出身。ライティングオフィス「FUNNARY」代表。大手広告代理店で広告運用業務に従事後、フリーランスとして独立。人事・採用・地方創生のカテゴリを中心に、BtoBメディアのコンテンツ執筆・編集を多数担当。わかりやすさ、SEO、情報網羅性の3つで、バランスのとれたライティングが好評。執筆実績:愛媛県、楽天株式会社、ランサーズ株式会社等